「気ぃつけて帰れよ。」-父を看取った日のこと
これは父が亡くなったあと、たしか数日後に書いたものだったと思います。
でもあの時は投稿できなかった。理由はよくわからない。
でも、今日見返してやっぱりこの時の事を忘れたくないと思った。
思い出として、ここに父の存在を残しておく。
介護の仕事をしていても、家族として看取る側になると、また違う景色が見える。そのことを忘れないために、ここに残しておく。
はじまりは、誤嚥性肺炎だった。
父は特養で不穏が強くなり、精神科に入院していた。
落ち着いてきて、「行き先が決まれば退院していい」と言われていた。
「リハビリがしたい」と言っていた。
父の希望に沿い、老健に申し込み、空きを待っていた。
やっと空きが出たという連絡が来た。
でもその少し前に、父は誤嚥性肺炎になっていた。
そのまま精神科で治療を続けながら様子を見てくれていたが、
ある日、急激に悪化。
内科のある病院へ転院し、
老健の入所は見送りになった。
あの時の父の姿は忘れられない。
素人の私が見ても、もうあかんのちゃうかと思う状態だった。
先生からも「覚悟はしておいてください」と言われた。
私は、ここで終わるのかもしれない、と覚悟した。
父は持ち直してくれた。
本当に、持ち直した。
しばらくして再び老健に空きが出たタイミングで入所がきまった。
父は食事の内容に文句を言っていたが、
それでも、文句を言えるくらい元気になったことが嬉しかった。
認知も進み、病室では真顔でおかしなことを言って笑わせてくれた。
「シャケ(鮭)取りに行こ。いつもここから釣りに行くんや。」
と、4階の病室の窓から行こうと私たちを誘う。
「寿司、食うて行け。そこで食えるから。」
父は本気で言っている。
だから余計におかしくて、母と私は笑って聞いていた。
あの時間は、今思えば父がくれた猶予だったのかもしれない。
元気の印は他にもあった。
「孫の手(背中を掻く棒)だれか持っていきよるねん。違うやつ持ってきてくれ。」
職員さんに聞くと、父は孫の手でナースコールを引き寄せ、
頻回にコールを鳴らすので、預かっていますとの事だった。
職員さんには申し訳ないんだけど思わず笑ってしまった。😂
そんなことをする元気があるなら、まだ大丈夫。
そう思っていた・・・
「もっとちゃんとしたやつが食いたい。」
嚥下は落ち、食事はペースト状になっていた。
父は食べることが好きだった。
「もっとちゃんとしたやつが食いたい。」
「ここの飯はドロドロや。」
周りの人は形のある食事をしている。
それを見る父の気持ちを思うと辛かった。
老健ではリスク重視の理由から食事の形態をアップすることは難しかった。
頭では理解できるけど、それでも家族としては食べさせてあげたかった。
家族同意で少しだけ試してくれた。
そして再び誤嚥。入院。
でもこの時は違った。
早めの入院により、最初の入院の時のような絶望感はなかった。
それでもやる事は同じ。絶食と点滴。
状態が落ち着くと、少しずつ食事再開となった。
療養病棟へ、そして再々度の誤嚥性肺炎。
二か月が過ぎ、そろそろ退院の話かと思った矢先、
療養病棟へ移ることになった。
私は良くなったからだと思っていた。
四、五日後。
再び誤嚥性肺炎の連絡。
面会に行くと、明らかに弱っている父がいた。
やはり食べると誤嚥してしまう。
声はか細く、
自分で寝返りも打てない。
天井をじっと見ている姿は、見てるだけでも辛かった。
それでも帰り際、父は言った。
「気いつけて帰れよ。」
自分がこんな状態でも、
最後まで私たちを心配していた。
「療養病棟 面会中止のお知らせ」
そんなある日、病院の公式LINEの通知が入る。
「療養病棟 面会中止のお知らせ」
病棟でコロナが出たらしい。
その3日後、午前6時40分、病院からの着信。
「危険な状態です。」
「血圧が下がって、危険な状態です。」
すぐに母と駆けつけた。
意識はなく、呼んでも返事はない。
そして告げられた。
面会中止中なので、病室には20分ほどしかいられないと。
こんな時なのに。
20分しかいられない?
母は泣きながら父の顔に触れ、話しかけていた。
私は「わかりました」と答えるしかなかった。
延命は希望していなかったので
モニターもついていなかった。
弟は怒っていた。
「呼びつけるだけ呼びつけて、それって酷くない?」
どうすることもできず、結局私たちは母の家で待機する事しかできなかった。
いつ鳴るかもしれない電話に怯えながら。
その夜中、再び着信。
「すぐ来てください。間に合わないかもしれません。」
到着すると看護師さんが言った。
「もう呼吸は止まっています。電話のあと、ほとんどすぐに呼吸が止まりました。」
母は泣き崩れた。
私は声が出ず、体に力が入ったまま涙をこぼしていた。
先生が来て告げた。
「2月16日 4時10分 死亡確認しました。」
私たちの到着を待っていてくれたようだった。
葬儀の準備
そこからは実務的な時間。
泣く余裕はなかった。
翌17日、初七日法要まで含めた一日葬。
棺の中の父は溢れるほどたくさんのお花で満たされていた。
「良いお顔してはるわ。」と皆が言った。
弟は立派に挨拶をし、喪主を務めてくれた。
最後の火入れのボタンは緊張した面持ちで弟が押してくれた。
火葬の間、みんなで食事を囲み、
父のこと自分たちの近況を話した。
和やかだった。
不思議なくらい、笑いもあった。
再び、火葬場に戻ると、炉から出てきた父はもう骨だけだった。
焼けた匂いは忘れられない。
骨はスカスカで、
頭蓋骨もほとんど形が残っていなかった。
人は、こんなふうに帰っていくのかと思った。
14人だけの家族葬。
気を遣う他人はいなかった。
本当に父を偲ぶ人だけで、
心から見送ることができたと思う。
最後に。
父は、人のために動く人だった。
最後も、私たちに気を遣わせないように、静かに逝った気がしている。
介護の仕事をしていると、たくさんの「看取り」に立ち会う。
でも、家族として看取ったこの経験は、また別の重さで私の中に残っている。
あの日感じたことを、これからも忘れずに、仕事にも向き合っていきたい。
